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グッド・バイ

ゆっくり 恋したい

私がフジファブリックを好きな理由

突然だが、私はフジファブリックというバンドが大好きだ。

というか好きという次元は遥か昔に超えている。

 

私がフジファブリックを初めて認識したのは今から8年前、映画『悪夢探偵』公開記念限定版として当時一万枚のみ売られた蒼い鳥のシングルをレンタルショップ屋で借りたことからである。中学の下校途中たまたま立ち寄ったレンタルショップ屋で、一切映画は観ていないが何故かそのCDが猛烈に気になった。帰宅後ドキドキしながらCDコンポに入れて聴いた。

怪しげなイントロと共に呪いのような歌が始まった。なんだこのお経みたいな曲。今でもそう思う。

そしてそのお経のような曲は終止お経のまま曲が終わり、あっけに取られる中、いわゆるカップリング曲が再生された。東京炎上である。


東京炎上 - YouTube

この曲を初めて聴いたときの衝撃とか感動とか驚きとかワクワクとかを表す言葉は8年経った今でも見つかってはいないが 、今聴いてもあの頃感じた感情が色あせず胸がいっぱいになる。

呆然として、ドキドキした。この二曲のたった10分で私はフジファブリックに恋をした。

 

そこからは当時放送委員だった私は毎日このお経みたいな曲と意味不明な言葉の羅列の曲を給食の時間に流し続けた。当時の同級生と先生達には貴重な休みの時間にある意味洗脳的に流し続けたことを本当に申し訳なく思っているがそこは14歳、いろいろある。*1許してほしい。

そして新しいシングル、Surfer Kingも出て順風満帆にフジファブリックファンでいた頃、突如として臨時収入が入った私は思いつく。そうだ、ライブへ行こう。そう決意した。このとき既にライブデビューはしていたが*2まだフジファブリックを観ていなかった自分は猛烈に観たいと思い、ライブに足を運んだ。そのライブが現在はHINTOとして活躍中の安倍コウセイがいるバンドとの対バンイベント、YOTSU-UCHI FANTASY ‖である。

そもそも対バンという言葉自体がアイドルヲタク*3には無縁であることから簡単に説明すると、要は少クラ*4かツアーか。もしくはハロコン*5か単独コンか、の違いである。

開演、一番手はお目当て、フジファブリックであった。ネットとは便利なもので当時のライブレポがロキノン界隈の方には有名なRO69というサイトにそのまま残っていたので有り難く載せさせていただく。

 

 

このレポートによると1曲目は今でもライブの定番曲となっている銀河だったらしいが全く記憶にない。あんなに心待ちにしていたフジファブリックを初めて観た記念すべきライブの1曲目なのに!と言われそうだが、仕方がないのだ。ギター、山内総一郎に私のフジファブリック史上、二度目の恋におちていたからである。

最初普通に真ん中に立って観ていた私は後半になるにつれてどんどん吸い寄せられるように右側へ、右側へと流れていった。右側で赤いストラトギターを響かせる彼に全毛穴という毛穴があいた。やられた瞬間なんて覚えていないが、終演後には山内総一郎で頭がいっぱいだった。

 そこからはもうフジファブリック三昧であった。

今まで行ったライブなんて書ききれる訳もないので省略するが、両国国技館でツアーファイナルを迎えた武者巡業ツアー、フジ×FUJIツアー、髭との東名阪対バンツアー、札幌での夢チカ、桜美林などの大学での文化祭ライブ、ここに書いてないものももちろんあるがとにかく07年〜09年のライブには、08年のジョンレノンの追悼武道館以外はほぼほぼ行った。特に招待制で抽選で外れたのにも関わらずお友達のおかげで入ることのできたTEENAGERのすべてとTEENAGER というアルバムを引っさげ、私自身当時15歳高校一年生にも関わらず、横浜、郡山、水戸、名古屋、中野2days、そして志村の最初で最後の凱旋公演となってしまった富士吉田公演の7公演を観に行ったTEENAGER FANCLUB TOURは思い入れしかない。

ちなみに武道館にのみ行かなかった理由は簡単で、単独の時まで取っておこうと思ったからである。しかしこの時のメンバーから一人欠けた形で6年後、単独武道館を果たせることになるとはこの時はもちろん知らない。

 

順調にいっていたフジファブリックを追いかける生活だったが徐々に私は純粋な心で応援できなくなっていた。ライブを重ねるうちに純粋にフジファブリックを好きだった頃の気持ちは薄れ、もっと、を求めてしまった。ここのここがダメ、あそこのここは良い、完全な評論家気取りになっていた。そんな時予想もしてなかったことが起こった。

ボーカルであり、バンドの創設者でもあり、中心メンバーだった志村正彦が29歳の若さで2009年12月24日に亡くなった。

 

私は今でもその訃報を受けたときのことをこれでもかというほどにはっきりと、はっきりと、覚えている。

夜の20時頃、その日はクリスマスイブで少し浮かれながら高校の教室にて友達と談笑していた。ふと携帯を取り出し当時大流行していたmixiを開くとそこにはフジファブリック志村正彦、急逝の文字があった。私は友達に志村が死んだ。と、そう伝えた。すぐに公式サイトを見にいくとそこには訃報の文字と共に、病名が不明であり本当に急であったこと、そしてファンの方々へ、という文字のあとに関係者すべての人々が動揺していること、残された山内、金澤、加藤の3人は音楽を続けていく意思があることが短い文章で書かれていた。

読み終わった直後から私はずっと笑っていた。人間、本当に信じられないことが起こると笑うのかもしれないが、本当にずっと笑っていた。しかしみんなに心配をかけたくないのもあり、ひたすらに笑っていたつもりではあったが、あとで聞いた話によると私はこの時笑いながら、見ていられない程にぼろぼろに泣いていたらしい。

 

そこからは予定通り決行されフジファブリックも『出演』した12月30日のCDJ09/10までの5日間、全くと言っていい程記憶がない。覚えていることは泣きながらmixiに日記を殴り書いたこと、虹を聴きながら真っ青な空を見て雲がないから天国にも行きやすいだろうな、とぼんやり思ったことのみである。この当時書いた日記はまだ残してあるが、未だに読むと胸が苦しくなる。

12月30日のCDJ09/10の出演はキャンセルされたが、亡くなったのにも関わらずフジファブリックが登場する予定通りの時刻に開演することが発表された。チケットは無かったが友達が、私が入らないでどうするんだ、とその貴重すぎるチケットをくれた。当日、私は幕張メッセの2万人の最前列にいた。

 

 

また当時のライブレポートで申し訳ないが、このライブレポートを読むと未だに感傷に浸ってしまう。終わった後は当時一緒に追っかけてた友達と手を繋いで会場を後にした。

そこから程なくしてお別れの会である、志村會が中野サンプラザで行われた。黒服を着て母親と一緒に献花しに行った。私は午後の部に行ったのでこの日の山内、金澤、加藤さんの姿は見てないが、たくさんのお花に囲まれた大きな志村の写真の前に立つ3人をネットニュースで見て、痩せたな、とおもった。特に元々細身ではあったが、山内の痩せ方は尋常じゃなかったと記憶している。

献花した時に今でも忘れられないことがあった。私が手を合わせるのを待っていると、隣の列に並んでいた母親に連れられた小さい女の子が、歌を口ずさんでいた。母親は一生懸命やめなさい、と叱っていたが私はそれを聴いて嬉しくなったと同時に悔しくなった。その小さな女の子はあどけない声で、『桜の季節過ぎたら、遠くの街にゆくのかい』そう、歌っていた。きっとなにもわからず桜の季節の最初のワンフレーズを歌っていたあの女の子は今、どうしているのだろうか。

 

志村會が終わって数ヶ月が経った頃、元から開催される予定だったフジフジフジQが志村の誕生日の七日後、7月17日に富士急ハイランドサウンドコニファーにて開催された。

このライブは元々、富士急がある富士吉田市出身の志村が初めてこの場所で奥田民生を観て感化された、TEENAGER FANCLUB TOURでの富士吉田公演以来、いわば二回目の凱旋公演になるはずであった。その場に志村はいなかったが、奥田民生を初め、氣志團くるりメレンゲなどたくさんの親交のあったバンドが出て、山内、金澤、加藤の3人の演奏の元、野外でフジファブリックの曲を歌ったとても感動的な空間であった。

そんな感動的なライブの終盤、突如としてきてしまった。3人での新曲の披露である。

会いに

会いに

新曲というか厳密に言うと、志村が歌う筈だったが、間に合わず急遽山内がレコーディングした新曲、である。(このMUSICというアルバムには仮レコーディングのままではあるが志村が歌った曲、間に合わず山内が歌った曲、両方が収録されている)

私は初めてこの会いにを聴いたとき、あまりのショックに膝から崩れ落ちた。大好きな山内が歌ってる筈なのに、どうしても3人のフジファブリックが受け入れられなかった。

数年後に読んだ山内のインタビューにあの当時を振り返り、『あの当時、いろんな意見があって。志村くんの歌わないフジファブリックフジファブリックではない、なんてことも言われたりした。でもそれでも、志村君が残したフジファブリックを残していきたい、その一心で、俺が歌う、そう言った。』そのようなことが書かれていた。

今ならあの当時、ものすごい覚悟をもって披露したことが理解できるが、17歳の私には志村の死に加えて3人での再始動なんて到底受け入れられるものではなかった。

(ちなみに余談だがこのライブの最後に花火が打ち上がったのだが、その瞬間に私が今までフジライブのときに使っていたバックの持ち手が見事にぶち切れ、その場にいた全員が震え上がるという事件があった)

そこから3人での完全復帰を果たした、2011年のロッキンを最後に私はフジファブリックから徐々に離れていった。

 

それからの3人はというと実力も人気も兼ね備えた大御所ロックバンドへと成長していった。アニメの主題歌やポッキーのCMソング、ホールツアー。志村の死をまるでバネにするかのような活躍ぶりだった。フジファブリックが好きなんです!という人を見つけ、え!と話し始めると、志村さんが亡くなってから知ったんですけど、そんな言葉が返ってくるぐらいになっていた。

しかし私はというと長い間、本当に長い間、志村の死と3人での活動が受け入れられなかった。自分でも本当に気持ち悪いなと思うが、亡くなってから3年経った2012年、19歳まで本気でどこかに隠れていると信じ込んでいた。このままではいけない、そう思った私は、詳しくは書かないが、19歳の時、お世話になった十代最後の年に自ら富士吉田に受け入れにいった。思いっきり泣いた。泣いて泣いて泣いて、泣きまくった。 

いないことを痛感するしかなかった。どうにも、ならなかった。

 

私は逃げるようにフジファブリックからさらに距離を置いた。なので2011年〜2013年の2年間のフジファブリックは何も知らない。

しかし突如として3人のフジファブリックを受け入れられることが起こった。

志村が亡くなった当初、CDJ09/10の会場から一緒に手を繋いで出た友達から今のフジこんなのやってるよとLINEがきた。それがこの、バタアシParty Nightだった。

なにやってんだ、と思ったあとに笑ってしまった。ドキドキした。

私はきっと時代が変わり、志村のことを知らないファンの人が増える中で、フジファブリックに対してどこか志村の幻影を残してほしかったのかもしれない。そしてやはり時代が変わり、私も大人になったのかもしれない。こういうのを求めていた。あまりにもスッと入ってきたこの曲で、私はフジファブリックに三度目の恋をした。

そこからはちょくちょくライブにも行くようになった。久々に行った、2013年のGO FOR THE SUNにて新種のファン*6に驚きながらも私はまたフジファブリックのライブで笑っていた。

 

そしてついにきてしまった、2014年、11月28日10周年武道館である。

2008年に武道館であったジョンレノン追悼コンサートに行かなかった理由を単独の時まで取っておこう、そう思ったからだと書いた。そこから6年後、様々なことがあったがついに、実現された。

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桜の季節で幕を開けたライブは、志村時代の曲、そして新しい山内時代の曲、歴史を辿ったそのライブは本当に素晴らしい10周年武道館で、今まで観て来たフジファブリックのすべてのライブをとっても敵わないような、そんな、ライブであった。山内の歌も会いにの頃に比べて格段に上手くなったし、声の出し方なんて志村に似てきたとすら思う。元々はギターだったのに、相当な覚悟と練習があったのは容易にわかる。

終わったあと、私は人目も気にせず思いっきり泣いた。まったく泣かされてばっかりのバンドではあるが、もちろんもうあの時のような悲しい涙では、ない。

 

最後にこの2本の動画を貼って終わらせたいと思う。

志村の最初で最後の凱旋公演になってしまった富士吉田公演での桜の季節。

そして、10周年武道館の本編ラストにて披露されたLIFE(武道館のLIFEのフルは残念ながらなかったので他のフェスでの映像である)

 

私はフジファブリックが大好きだ。これだけはきっと何年何十年どんなに環境が変わっても時間が経っても変わらない自信がある。

武道館の一曲目に披露された、桜の季節の最初のワンフレーズ

『桜の季節過ぎたら、遠くの街にゆくのかい』

そして、武道館本編ラストで披露されたLIFEの最後のワンフレーズ

『戻らない日々に手を振って行くのさ、今日も続いていく』

今日もフジファブリックに恋をしている。

 

 

 

 

 

なお、08年の招待制ライブ、TEENAGERのすべてに《入れてくれたお友達》とは09年の志村亡き後音信不通になってしまっていたが、ツイッター上で偶然にも見つけ、今度7月2日にあるフジファブリックウルフルズの対バンイベントにて実に6年ぶりに再会する予定である。

 

*1:所謂厨二病

*2:06年アジカン酔杯など

*3:私の今の畑

*4:様々な若手ジャニーズが共演する夢の番組

*5:ハロープロジェクト所属のグループが毎年夏と冬に合同でやるコンサート

*6:なんか新しい曲のノリ方があった