グッド・バイ

ゆっくり 恋したい

前回の『私がフジファブリックを好きな理由』をうけてアイドルヲタクが考えるフジファブリックの魅力

前回、私が真夜中4時頃に書き終えたまま寝に入り、翌日の平日真っ昼間という誰もネット上にいなさそうな時間に、そういや書いたしな、となんの気も無しに公開した『私がフジファブリックを好きな理由』という記事がありがたいことになかなかに好評であった。

閲覧数は公開してから2日目の今日で既に700を超えている。

有名ブロガーさんからしたら700なんて普通の話なのかもしれないが、こんな端くれのブログ、他エントリーは自己紹介記事のみ、しかもフジファブリックの話のみを大真面目にしてるのに何故かカテゴリーはジャニーズ 。そんな謎だらけの記事だが、どうやら様々な方に様々な感想を持っていただけたようである。

単純に私の文章を褒めてくださる方、感動したと言ってくださる方、予想外の数の方から反応がいただけて本当にありがたかった。しかしこんな大事なことを前回の記事に書き忘れたのは本当に失態だと思っているが、いずれにせよ私が志村亡き後、一番恐れていたことは《フジファブリックというバンド、そして志村正彦という人物が忘れ去られる》ということだった。

 志村が生前言っていた言葉でこんな言葉がある。

『本当につらいのは嫌われる事よりも無関心でいられることが一番つらいと思います』

どこで言っていたかなんてはっきり覚えていないが、確か何かの新聞でのインタビューだったような気がする。いや本当に気がするだけなのだけど、私は妙にこの言葉を覚えているし実際に遺作となってしまったCHRONICLEの歌詞を見ても(志村が言っていたようにこのアルバム曲の歌詞がすべてノンフィクションなのだとしたら)きっと志村は相当忘れ去られる事を恐れていたと思われる。なので前置きが長くなったが、とにかく感想の中で一番多かった、私のブログを読んで、ちょっと今日はフジファブリックを聴こうかな、とか、フジファブリックって懐かしいな、とか、そうやって少しでもフジファブリックの事を考えてくれた、そのことが一番嬉しかったのである。

(しかしフジファブリックを忘れ去られるのが嫌だ、と言いつつも、フジファブリックの名を残そうとしてくれた3人での活動が長年の間受け入れられなかった、というのはちょっとした矛盾にも思えるが、そこは当時複雑なセブンティーン。許してほしい。*1

 

しかも前回の記事を書いてみて、それはそれは意外な事実を発見してしまった。

私がカテゴリーをジャニーズで投稿するという謎めいた行動をとったことも関係してるかもしれないが、なんとフジファブリック好きにはアイドル好きが多いという事実である。

もちろんそんなことはなく純粋に邦楽ロックのみが好き、という方ももちろんいたが、もうなんなら邦楽ロックが好きというよりも【フジのみか、フジ+アイドルが好きか】という2種類に分けれそうな勢いだったことには非常に感動した。というのも私が全盛期でフジファブリックをこじらせてた2008年頃なんて、J-POPから入ったくせに*2J-POPというものに対して若さ故の敵対心みたいなものを少なからず持っていたからである。

しかもジャニーズやハロプロ、AKBなんていう所謂“アイドル趣味“というものは、本当は一部の人がやってることなのに、その一部の人が明るみになることでそのイメージだけで非常に偏見を持たれやすい趣味である。だからフジファブリックなんていう邦楽ロックど真ん中!みたいなバンドのファンにアイドル好きが多いことには純粋に感動したし、なんなら、えーーーー早く言ってよ仲間じゃーーーんなんていう気持ちである。

 

そこで、前回はフジファブリックヲタクから見たフジファブリックの魅力”だったが今回は“アイドルヲタクから見たフジファブリックの魅力”としてブログを書こうと思う。なお、フジファブリックを決してアイドル視しているわけではないのでそこは注意していただきたい。あくまでアイドルヲタクでもハマりやすいバンドである、というところを推したい。

そしてこのようなブログを書くにあたってこれだけは外せないと思うので書いておくが、私は強火山内担*3あるいはハロヲタ風に言うと山内激単推しである。

………なんだか自分でも書いてて恥ずかしくなったので早速本題にはいる。

 

何故フジファブリックファンにはアイドル好きが多いのか考えてみたところ思い当たる節は二つしかなかった。一つ目は著名なアイドル達がフジファブリックのファンを公言してくれていることである。

関ジャニ∞渋谷すばるくんは、自身のラジオで昔『若者のすべて』を流してくれて挙げ句の果てに雑誌などでもフジファブリックを自身のオススメソングとして挙げたことがあると聞いたことがあるし、元AKB48佐藤亜美菜さんはまだ卒業する前のGoogle+にて志村の地元、富士吉田市にある富士急ハイランドを訪れた際に、フジファブリックを聴いているという趣旨の書き込みをしてくれていた。いずれにせよ二人とも最高である。

そして二つ目の思い当たる節と言えば山内総一郎、自らの発言も影響しているような気がする。

後で詳しく書くが、以前ライブのMCにて『女性アイドルより男性アイドルが好き』という謎のカミングアウトをしていたことがある。その真相はもちろん怪しい理由ではなく男性アイドルは曲が本当に良い、という理由であったが、それを知った時さすが私が惚れ込んだ男とガッツポーズしたのは言うまでもない。と同時にそんな山内にぜひ、プッチベスト*4をすべて揃えたハロプロ全曲集をまとめて送りたいと思った次第である。

 

ということでアイドルヲタクが考えるフジファブリックの魅力3つをまとめてみる。

 

1、何故か共演する機会がとても多い

共演と言っても一緒にテレビに出たりなどはまだ夢の夢だが、フジファブリックとアイドル(特にジャニーズ)は何故か一緒のコンサート日程になることが非常に多い。

 

2012年冬

2013年春

2013年秋

 

 

ダダ被りである。そして何故かいつも2日目。

 

 

しかも嵐のときに至っては本人達が自らMCで『僕たち嵐でーーーーす』という1秒でわかる嘘をつき、フジファブリックのLIVEで何故かA・RA・SHIを歌う(しかもあのミリオンヒット作の歌詞を間違えるというオチ付き)という大事件が起こり、しかも上記に書いた山内、『女子アイドルより男子アイドルの方が好き発言』である。これを私はアラフジの乱と呼んでいる。

 

しかもこれだけではない。

 

山Pこと山下智久さん主演、そしてSexy Zoneから佐藤勝利君も出演した2013年夏クールの月9ドラマ『SUMMER NUDE』*5の第3話にてP山さん演じる主人公が忘れられない女性(長澤まさみ)との思い出の曲としてフジファブリック若者のすべてが登場した。

放送当時、Sexy Zone佐藤勝利くんの大根役者ぶり(褒めてる)を楽しみにみていた私は、突然の聴き慣れすぎた志村の歌声と山内のギターの音色に目ん玉引ん剝くくらいびっくりしたものである。

しかもしかもだ。アニメ『銀の匙』の第二期主題歌はフジファブリックのLIFEであったが、映画『銀の匙』の主演はSexy Zoneのラブホリ先輩こと中島健人くんであり、その中島健人くんがアニメ版声優に初挑戦してしまったのである。めざましテレビではLIFEをBGMに颯爽とアフレコスタジオに登場する中島健人くんが映し出され、この時中島くんはLIFEを毎日聴いている発言をしていた。これは現在はいろいろあって違うが*6当時セクゾン担だった私にとっては、本当に嬉しい出来事であった。

やはりアイドル好きの目に止まりやすいこのような関わりが多いということはとても大事な要素ではないだろうか。

 

2、山内総一郎金澤ダイスケ加藤慎一のキャラクター性と音楽の変態さ

メンバーのキャラクター性もフジファブリックがアイドル好きに好かれる理由の一つとして挙げられるだろう。

山内は志村亡き後ボーカルとしての任務を果たすため、昔よりかはかなりしっかり者になった印象ではあるが、未だに基本は関西の優しいアホの子だ。しかもボーカルになってしまったことによって話が面白くないことが全面的にバレてしまった。そう、山内は関西人なのに話が全く面白くない。

2008年の山内はよくMC前にまいどー!とお客さんに声をかけてた時期があったのだが、何らかのツアーの大阪公演にて大阪ということもあり、志村(山梨出身)も金澤(茨城出身)も加藤さん(石川出身)も山内以外のすべてのメンバーがMCを始める前にまいどー!と声をかけていた。ここは当然大阪出身の山内もまいどー!と声をかける場面である。というか大阪出身じゃなくても空気を読んでそうするはずだ。しかしさすが山内、何故かその日だけ、『えーということでね、どうも山内総一郎です。』

会場全体がすっ転んだ。しかも本人は至ってきょとん顔だった。やはり私が見込んだ男なだけある(2度目)

金澤は顎間接なんたら*7のせいで顎が尖っていたため完全に新幹線のぞみ号(この発言の発端はもちろん志村である)としてみんなからいじられ放題だったのにお洒落ボーイへの進化を遂げたし、加藤さんは最近は昔よりだいぶ喋るようになったが、基本はなんにも変わらないただの大酒飲みだ。昔、水の代わりにワンカップの日本酒がベースアンプの上に置いてあったのを見た事がある。正直、異常である。

でも変にロックバンドだからってかっこつけたりしない、ゆったりほんわかなとこが最高に素敵な3人なのだ。

 

しかも曲も至って変態らしく、そして見事にちょっとズレてる。新譜が出たかと思えばタイトルはバタアシParty Night。なんじゃそりゃって思わず言いたくなる。

しかし、一見なんじゃそりゃと言いたくなるところや、変態だけどキラキラしてるけど鬱屈としている、なんてところはどうだろう、なんとなくあのハロプロのなんとも言えないダサさと似てきたような気がしないだろうか。そしてハロプロと似てるということは、ジャニーズのあのかっこいいけど何故かダサいというところにも合わさってくるのではないだろうか。人間だってそうだ。なんでもできる金持ちイケメンが良いと思いつつも結局は何故かちょっと隙がある人を選びたがる。ちょっとダサいセンスとは素晴らしいものなのかもしれない。

ちなみに余談だが志村の性格も話しておくと、ただの変態である。そして志村が亡くなる以前、ジャニーズから楽曲提供の話が来ていたらしいが丁重に断ったと志村の自伝だかに書いてあった、気がするのだが、もしこの話の出典がわかる人がいればこっそり教えてほしい。

 

3、バンドがもつストーリー性

でもここまでなんだかんだ言ってきたが、フジファブリックが“成功してしまった”理由はなんと言ってもこれだと思う。簡単にまとめさせてもらうが、

 

メジャーデビュー→ライブ活動に励む→脱退を繰り返しながらも動員を増やす→夢の地元公演→突如としていなくなってしまった主要メンバー→残されたメンバーで頑張った結果売れた→感動の10周年。

 

もちろん、いくら成功したからといっていなくなることを望んではいないし、きっと志村がいたらもっと成功してたかもしれないし、というかやはり私はフジファブリックファンなのでそれを望みたいし、これは偶然が重なってしまった結果ではある。

だが正直非常に日本人が好みやすいストーリー性を持つ特殊なバンドであることには間違いない。脱退、卒業は100歩譲ってよくあることにしても、人が亡くなってからもそのグループが第一線で続く、というのはきっとそうそうない。なんでないかってただでさえ続けていくことは大変なのに、より一層大変になるからだろう。だから3人の努力と覚悟は本当に凄いと思う。(※そしてもちろんの事だが、志村が亡くなってからフジを知った人を批判しているわけではないしむしろ大歓迎である)

また大事なことだが、決して亡くなったからストーリーが作られたわけではない。それまでにもフジファブリックには数々のストーリーがあった。ただそれを色濃く伝説としてしまい大衆に位置付けてしまったのが志村の件であったと私は思う。

 

少し話が逸れてしまったが、共演が多い、各々の魅力的なキャラクターとバンドのダサさ、そしてストーリー性。これら3つの要素を考えるとアイドル好きにフジファブリック好きが多いのもちょっとは考えがつく。

私はジャニーズが好きだし、ハロプロが好きだし、そしてそれらと同じように心底フジファブリックが好きだ。願わくば今の私の現担当、ジャニーズWEST中間淳太くんとモーニング娘。15の野中美希ちゃんにフジファブリックを好きだ、と言ってもらいたいしどこかの番組などでぜひ共演してもらいたい。もしそんな日が訪れてしまったら勝訴を伝えるブログをあげようと思う。

ただし万が一、山内氏自身が中間淳太くん好きが判明した場合には一緒に中間財閥*8に沈められようと思う。なんて幸せだ、夢は広がる。

その日まで、劇終。*9

 

 

 

*1:前回に続き許してほしい第二弾

*2:私のすべての始まりはモーニング娘。です

*3:ジャニーズは好きすぎる人のことを強火と言ってしまう面白い文化がある

*4:様々なハロプロの曲が入ったコンピレーションアルバム

*5:なおこのドラマの元は真心ブラザーズのシングル『サマーヌード』から来ており、P山さんカバーのSUMMER NUDE´13はOKAMOTO´Sアレンジという素晴らしい作品

*6:セクゾン担やりたいがセクゾンの環境故にできない系ヲタク

*7:要は顎の病気

*8:中間淳太くんのお家柄♡

*9:シングルが出る度に発行された無料の冊子、赤富士通信の終わり方はいつもこう

私がフジファブリックを好きな理由

突然だが、私はフジファブリックというバンドが大好きだ。

というか好きという次元は遥か昔に超えている。

 

私がフジファブリックを初めて認識したのは今から8年前、映画『悪夢探偵』公開記念限定版として当時一万枚のみ売られた蒼い鳥のシングルをレンタルショップ屋で借りたことからである。中学の下校途中たまたま立ち寄ったレンタルショップ屋で、一切映画は観ていないが何故かそのCDが猛烈に気になった。帰宅後ドキドキしながらCDコンポに入れて聴いた。

怪しげなイントロと共に呪いのような歌が始まった。なんだこのお経みたいな曲。今でもそう思う。

そしてそのお経のような曲は終止お経のまま曲が終わり、あっけに取られる中、いわゆるカップリング曲が再生された。東京炎上である。


東京炎上 - YouTube

この曲を初めて聴いたときの衝撃とか感動とか驚きとかワクワクとかを表す言葉は8年経った今でも見つかってはいないが 、今聴いてもあの頃感じた感情が色あせず胸がいっぱいになる。

呆然として、ドキドキした。この二曲のたった10分で私はフジファブリックに恋をした。

 

そこからは当時放送委員だった私は毎日このお経みたいな曲と意味不明な言葉の羅列の曲を給食の時間に流し続けた。当時の同級生と先生達には貴重な休みの時間にある意味洗脳的に流し続けたことを本当に申し訳なく思っているがそこは14歳、いろいろある。*1許してほしい。

そして新しいシングル、Surfer Kingも出て順風満帆にフジファブリックファンでいた頃、突如として臨時収入が入った私は思いつく。そうだ、ライブへ行こう。そう決意した。このとき既にライブデビューはしていたが*2まだフジファブリックを観ていなかった自分は猛烈に観たいと思い、ライブに足を運んだ。そのライブが現在はHINTOとして活躍中の安倍コウセイがいるバンドとの対バンイベント、YOTSU-UCHI FANTASY ‖である。

そもそも対バンという言葉自体がアイドルヲタク*3には無縁であることから簡単に説明すると、要は少クラ*4かツアーか。もしくはハロコン*5か単独コンか、の違いである。

開演、一番手はお目当て、フジファブリックであった。ネットとは便利なもので当時のライブレポがロキノン界隈の方には有名なRO69というサイトにそのまま残っていたので有り難く載せさせていただく。

 

 

このレポートによると1曲目は今でもライブの定番曲となっている銀河だったらしいが全く記憶にない。あんなに心待ちにしていたフジファブリックを初めて観た記念すべきライブの1曲目なのに!と言われそうだが、仕方がないのだ。ギター、山内総一郎に私のフジファブリック史上、二度目の恋におちていたからである。

最初普通に真ん中に立って観ていた私は後半になるにつれてどんどん吸い寄せられるように右側へ、右側へと流れていった。右側で赤いストラトギターを響かせる彼に全毛穴という毛穴があいた。やられた瞬間なんて覚えていないが、終演後には山内総一郎で頭がいっぱいだった。

 そこからはもうフジファブリック三昧であった。

今まで行ったライブなんて書ききれる訳もないので省略するが、両国国技館でツアーファイナルを迎えた武者巡業ツアー、フジ×FUJIツアー、髭との東名阪対バンツアー、札幌での夢チカ、桜美林などの大学での文化祭ライブ、ここに書いてないものももちろんあるがとにかく07年〜09年のライブには、08年のジョンレノンの追悼武道館以外はほぼほぼ行った。特に招待制で抽選で外れたのにも関わらずお友達のおかげで入ることのできたTEENAGERのすべてとTEENAGER というアルバムを引っさげ、私自身当時15歳高校一年生にも関わらず、横浜、郡山、水戸、名古屋、中野2days、そして志村の最初で最後の凱旋公演となってしまった富士吉田公演の7公演を観に行ったTEENAGER FANCLUB TOURは思い入れしかない。

ちなみに武道館にのみ行かなかった理由は簡単で、単独の時まで取っておこうと思ったからである。しかしこの時のメンバーから一人欠けた形で6年後、単独武道館を果たせることになるとはこの時はもちろん知らない。

 

順調にいっていたフジファブリックを追いかける生活だったが徐々に私は純粋な心で応援できなくなっていた。ライブを重ねるうちに純粋にフジファブリックを好きだった頃の気持ちは薄れ、もっと、を求めてしまった。ここのここがダメ、あそこのここは良い、完全な評論家気取りになっていた。そんな時予想もしてなかったことが起こった。

ボーカルであり、バンドの創設者でもあり、中心メンバーだった志村正彦が29歳の若さで2009年12月24日に亡くなった。

 

私は今でもその訃報を受けたときのことをこれでもかというほどにはっきりと、はっきりと、覚えている。

夜の20時頃、その日はクリスマスイブで少し浮かれながら高校の教室にて友達と談笑していた。ふと携帯を取り出し当時大流行していたmixiを開くとそこにはフジファブリック志村正彦、急逝の文字があった。私は友達に志村が死んだ。と、そう伝えた。すぐに公式サイトを見にいくとそこには訃報の文字と共に、病名が不明であり本当に急であったこと、そしてファンの方々へ、という文字のあとに関係者すべての人々が動揺していること、残された山内、金澤、加藤の3人は音楽を続けていく意思があることが短い文章で書かれていた。

読み終わった直後から私はずっと笑っていた。人間、本当に信じられないことが起こると笑うのかもしれないが、本当にずっと笑っていた。しかしみんなに心配をかけたくないのもあり、ひたすらに笑っていたつもりではあったが、あとで聞いた話によると私はこの時笑いながら、見ていられない程にぼろぼろに泣いていたらしい。

 

そこからは予定通り決行されフジファブリックも『出演』した12月30日のCDJ09/10までの5日間、全くと言っていい程記憶がない。覚えていることは泣きながらmixiに日記を殴り書いたこと、虹を聴きながら真っ青な空を見て雲がないから天国にも行きやすいだろうな、とぼんやり思ったことのみである。この当時書いた日記はまだ残してあるが、未だに読むと胸が苦しくなる。

12月30日のCDJ09/10の出演はキャンセルされたが、亡くなったのにも関わらずフジファブリックが登場する予定通りの時刻に開演することが発表された。チケットは無かったが友達が、私が入らないでどうするんだ、とその貴重すぎるチケットをくれた。当日、私は幕張メッセの2万人の最前列にいた。

 

 

また当時のライブレポートで申し訳ないが、このライブレポートを読むと未だに感傷に浸ってしまう。終わった後は当時一緒に追っかけてた友達と手を繋いで会場を後にした。

そこから程なくしてお別れの会である、志村會が中野サンプラザで行われた。黒服を着て母親と一緒に献花しに行った。私は午後の部に行ったのでこの日の山内、金澤、加藤さんの姿は見てないが、たくさんのお花に囲まれた大きな志村の写真の前に立つ3人をネットニュースで見て、痩せたな、とおもった。特に元々細身ではあったが、山内の痩せ方は尋常じゃなかったと記憶している。

献花した時に今でも忘れられないことがあった。私が手を合わせるのを待っていると、隣の列に並んでいた母親に連れられた小さい女の子が、歌を口ずさんでいた。母親は一生懸命やめなさい、と叱っていたが私はそれを聴いて嬉しくなったと同時に悔しくなった。その小さな女の子はあどけない声で、『桜の季節過ぎたら、遠くの街にゆくのかい』そう、歌っていた。きっとなにもわからず桜の季節の最初のワンフレーズを歌っていたあの女の子は今、どうしているのだろうか。

 

志村會が終わって数ヶ月が経った頃、元から開催される予定だったフジフジフジQが志村の誕生日の七日後、7月17日に富士急ハイランドサウンドコニファーにて開催された。

このライブは元々、富士急がある富士吉田市出身の志村が初めてこの場所で奥田民生を観て感化された、TEENAGER FANCLUB TOURでの富士吉田公演以来、いわば二回目の凱旋公演になるはずであった。その場に志村はいなかったが、奥田民生を初め、氣志團くるりメレンゲなどたくさんの親交のあったバンドが出て、山内、金澤、加藤の3人の演奏の元、野外でフジファブリックの曲を歌ったとても感動的な空間であった。

そんな感動的なライブの終盤、突如としてきてしまった。3人での新曲の披露である。

会いに

会いに

新曲というか厳密に言うと、志村が歌う筈だったが、間に合わず急遽山内がレコーディングした新曲、である。(このMUSICというアルバムには仮レコーディングのままではあるが志村が歌った曲、間に合わず山内が歌った曲、両方が収録されている)

私は初めてこの会いにを聴いたとき、あまりのショックに膝から崩れ落ちた。大好きな山内が歌ってる筈なのに、どうしても3人のフジファブリックが受け入れられなかった。

数年後に読んだ山内のインタビューにあの当時を振り返り、『あの当時、いろんな意見があって。志村くんの歌わないフジファブリックフジファブリックではない、なんてことも言われたりした。でもそれでも、志村君が残したフジファブリックを残していきたい、その一心で、俺が歌う、そう言った。』そのようなことが書かれていた。

今ならあの当時、ものすごい覚悟をもって披露したことが理解できるが、17歳の私には志村の死に加えて3人での再始動なんて到底受け入れられるものではなかった。

(ちなみに余談だがこのライブの最後に花火が打ち上がったのだが、その瞬間に私が今までフジライブのときに使っていたバックの持ち手が見事にぶち切れ、その場にいた全員が震え上がるという事件があった)

そこから3人での完全復帰を果たした、2011年のロッキンを最後に私はフジファブリックから徐々に離れていった。

 

それからの3人はというと実力も人気も兼ね備えた大御所ロックバンドへと成長していった。アニメの主題歌やポッキーのCMソング、ホールツアー。志村の死をまるでバネにするかのような活躍ぶりだった。フジファブリックが好きなんです!という人を見つけ、え!と話し始めると、志村さんが亡くなってから知ったんですけど、そんな言葉が返ってくるぐらいになっていた。

しかし私はというと長い間、本当に長い間、志村の死と3人での活動が受け入れられなかった。自分でも本当に気持ち悪いなと思うが、亡くなってから3年経った2012年、19歳まで本気でどこかに隠れていると信じ込んでいた。このままではいけない、そう思った私は、詳しくは書かないが、19歳の時、お世話になった十代最後の年に自ら富士吉田に受け入れにいった。思いっきり泣いた。泣いて泣いて泣いて、泣きまくった。 

いないことを痛感するしかなかった。どうにも、ならなかった。

 

私は逃げるようにフジファブリックからさらに距離を置いた。なので2011年〜2013年の2年間のフジファブリックは何も知らない。

しかし突如として3人のフジファブリックを受け入れられることが起こった。

志村が亡くなった当初、CDJ09/10の会場から一緒に手を繋いで出た友達から今のフジこんなのやってるよとLINEがきた。それがこの、バタアシParty Nightだった。

なにやってんだ、と思ったあとに笑ってしまった。ドキドキした。

私はきっと時代が変わり、志村のことを知らないファンの人が増える中で、フジファブリックに対してどこか志村の幻影を残してほしかったのかもしれない。そしてやはり時代が変わり、私も大人になったのかもしれない。こういうのを求めていた。あまりにもスッと入ってきたこの曲で、私はフジファブリックに三度目の恋をした。

そこからはちょくちょくライブにも行くようになった。久々に行った、2013年のGO FOR THE SUNにて新種のファン*6に驚きながらも私はまたフジファブリックのライブで笑っていた。

 

そしてついにきてしまった、2014年、11月28日10周年武道館である。

2008年に武道館であったジョンレノン追悼コンサートに行かなかった理由を単独の時まで取っておこう、そう思ったからだと書いた。そこから6年後、様々なことがあったがついに、実現された。

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桜の季節で幕を開けたライブは、志村時代の曲、そして新しい山内時代の曲、歴史を辿ったそのライブは本当に素晴らしい10周年武道館で、今まで観て来たフジファブリックのすべてのライブをとっても敵わないような、そんな、ライブであった。山内の歌も会いにの頃に比べて格段に上手くなったし、声の出し方なんて志村に似てきたとすら思う。元々はギターだったのに、相当な覚悟と練習があったのは容易にわかる。

終わったあと、私は人目も気にせず思いっきり泣いた。まったく泣かされてばっかりのバンドではあるが、もちろんもうあの時のような悲しい涙では、ない。

 

最後にこの2本の動画を貼って終わらせたいと思う。

志村の最初で最後の凱旋公演になってしまった富士吉田公演での桜の季節。

そして、10周年武道館の本編ラストにて披露されたLIFE(武道館のLIFEのフルは残念ながらなかったので他のフェスでの映像である)

 

私はフジファブリックが大好きだ。これだけはきっと何年何十年どんなに環境が変わっても時間が経っても変わらない自信がある。

武道館の一曲目に披露された、桜の季節の最初のワンフレーズ

『桜の季節過ぎたら、遠くの街にゆくのかい』

そして、武道館本編ラストで披露されたLIFEの最後のワンフレーズ

『戻らない日々に手を振って行くのさ、今日も続いていく』

今日もフジファブリックに恋をしている。

 

 

 

 

 

なお、08年の招待制ライブ、TEENAGERのすべてに《入れてくれたお友達》とは09年の志村亡き後音信不通になってしまっていたが、ツイッター上で偶然にも見つけ、今度7月2日にあるフジファブリックウルフルズの対バンイベントにて実に6年ぶりに再会する予定である。

 

*1:所謂厨二病

*2:06年アジカン酔杯など

*3:私の今の畑

*4:様々な若手ジャニーズが共演する夢の番組

*5:ハロープロジェクト所属のグループが毎年夏と冬に合同でやるコンサート

*6:なんか新しい曲のノリ方があった